空手奮闘記

 

【初心の頃】

全【83】話

 

初心というテーマで昔を思い起こしながら書いてみました。

 


 

 

【1】空手道入門(1)

誰でも、「初心者」という時期は有るもので、これは、私が空手を、始めたばかりの頃のお話です。

 

私が空手を習いたいと思ったのは、1970年代の中学生の頃で、当時「少年マガジン」に連載されていた、漫画「空手バカ一代」を読んで強烈なインパクトを受けたためでした。

 

「空手バカ一代」は、「巨人の星」や「あしたのジョー」などの原作で有名な梶原一騎原作の漫画で「空手家 大山倍達」の半生を描いた実話を基にしたフィクションです。

 

牛を倒し、熊とも戦い、剣術やピストルにも負けず、プロレスラーやボクサーをも一撃で倒す超人的強さの空手家の活躍に、当時、世間知らずで純真な中学生だった私は、完全な実話と信じ込み『自分も強くなりたい。必ず黒帯になる。』と強く心に刷り込まれ新興宗教を信じるかのように空手に憧れをいだきました。

しかし、こういった思い込みのおかげで空手を始められたので、若い時特有の思い込みや勘違いも悪くはないと最近思います。

 


 

 

【2】空手道入門(2)

 

さて、高校受験も終え晴れて高校生になった私は、さっそく空手を習うことにしました。

しかし、『空手バカ一代 大山倍達』の主催する空手道場『極真会』は、私の住む神奈川県には、

支部道場が有りませんでした。仕方が無いので、当時出来たばかりの『極真会の空手通信教育』を

受講することにしました。

 

空手の通信教育なんて言うと

『ナンダそれは、冗談か!』

と突っ込まれそうですが、『極真会』以外の道場には、行きたくなかったのです。

 

私は、送られてきたテキストを宝物のように大切にし、熟読して稽古しました。

家族の者には、柔軟体操する私の余りの体の硬さを笑われたりしたものです。

 

しかし、通信教育にも良い所は有るものです。

テキストには、当時、極真会でも非常に技が綺麗な東谷先輩の写真を使用していたので、私の基本の型は、綺麗な形が身に付きました。

 

後に道場に通い始めたとき、周りの人の基本の型は、いまひとつで、みっちり一流の先輩の写真を見られる通信教育も捨てたもんじゃないと思ったものです。

 


 

 

【3】初道場稽古(1)

 

さて、東京渋谷には、通信教育生が1回ずつのチケットで稽古できる道場が、常設されていまして、

3ヶ月ほどして「通信教育基本編」も終了したので1回稽古に行って見ることにしました。一大決心です。

 

当時住んでいた神奈川の西のはずれの小田原から電車で3時間くらいかかりました。

 

道場は、渋谷駅からすぐの雑居ビルの2階に在りました。

道場は、50畳くらいの狭いもので、高校生から大人まで30人くらいは、道場生が集まっていたと思います。

 

師範は、「空手バカ一代」の原作者梶原一騎氏の実弟真樹日佐夫先生でした。

 

真樹先生は、細身長身で、目つき鋭く、声は低音ハスキーで、とにかく怖いの一言でした。

 

しかし、怖いけれどカッコイイ印象で、それからしばらくは、真樹先生ファンになり、小田原に帰った後も、テレビに空手の演武で出演された先生の姿を見ては、「真樹先生だ!」と興奮していました。

 


 

 

【4】初道場稽古(2)

 

いよいよ稽古開始です。柔軟体操を終え基本稽古に入りました。

 

基本稽古とは、全員が正面に向かって空中に突きや蹴りを行うもので、いわゆる素振りのようなものです。

その際『セイ!』と気合つまり大きな声を出すのですが、その30人余りの気合が半端じゃなくデカクて

『まるで、野獣の檻の中のようだ!』

と仰天しました。耳がキーンとするような感じです。

 

30分くらい基本稽古を行った後、次は移動稽古に入ります。

 

移動稽古とは、1歩づつ歩きながら、突きや蹴りを出す、やはり素振りの様なものです。

 

師範が、号令をかけた後、道場生が自らが端から順に号令をかけていきます。

号令は、「1」「2」「3」「回って」これを2回繰り返します。

 

私は、入ったばかりの新米なので号令をかけるのは、一番最後です。

私は、とにかく緊張していまして、自分の番が来るまで心臓が高鳴っていました。

 

ここまで、初めて空手道場の稽古に参加して判ったことは、

『間違っても良いからとにかく気合を入れること』

で、これは、大きな声を出すと同時に何事も全力で行うと言う事で、力を抜いたり声が小さいと師範に怒鳴られるということです。

 

そして、もう一つ。返事は「イエス」も「ノー」も全て「押忍(オス)」と大声でするということです。

大声というより皆さん必死で、ほとんど怒鳴り声です。

 


 

 

【5】初道場稽古(3)

 

さて、いよいよ私が移動稽古の号令をかける時が来ました。

 

私は、極度の緊張のあまり「1」「2」「3」「回って」と号令をかけるべき所を「1」「2」「3」「4」と言ってしまったのです。

 

「4、までやりたいのか~!」と大声で師範に怒鳴られましたが、今まで学習したとおり、謝罪の返事を全力の大声で、ほとんど怒鳴り声で「押忍!」としました。

 

師範も青白い高校生が、顔面蒼白なのでそれ以上は、お咎めは、ありませんでした。

 

しかし「4、までやりたいのか~!」という師範の突っ込みは、今思うと「洒落てるな~」と感心します。

自分だったら「4じゃなくて回ってだろ~」と普通に注意すると思いますので…。

 


 

 

【6】初道場稽古(4)

 

稽古も終盤になり、いよいよ自由組手の時間になりました。

 

自由組手とは、2人組でお互いに突き蹴りの攻防を行う稽古です。

 

空手には、護身術であるがゆえに、基本的に反則という考えは有りませんが、それでは、怪我人続出で道場稽古が成り立ちませんので、おおざっぱに言うと3つのルールの下に自由組手を行います。

 

 

① 手で顔を攻撃しない。(蹴りは、可)

② 金的(下腹部)攻撃禁止

③ 手でつかまない。投げない。

 

細かくは省略しますが、以上の3つです。

 

現在、多くの空手道場の自由組手は、スピードはそのままに力を半分くらいに抑えたライトな方法が採用され痛みや怪我も少ないのですが、当時の組手は、ほぼ全力で行う、ルールの有る「叩きあい、蹴りあい」といった感じでした。

 

技術もまだまだ未開発で泥臭いものでした。

 

まず、師範が、道場中央に立ち茶帯(二級)の先輩を指名し組手開始です。

 

すると、なんと師範は、茶帯の先輩の顔を手で叩いていくのです。

 

裏拳(手の甲で素早く叩く)で、多少手加減はしている様ですが、

何発も喰らった茶帯の先輩は、鼻血を出していました。

 

私は、『顔叩くの?!』と全身凍りつきました。

 

やっと師範の組手が終わると次は鼻血の先輩に後輩が向かっていくのですが、誰も敵わないのです。

 

そして、組手の最後に私達白帯(初心者・無級)に向かい師範が

「白帯で組手やりたい者いるか~」とおっしゃいました。

 


 

 

【7】初道場稽古(5)

 

私は、『押忍!御願いします』と言うはずもなく、じっと石仏の様に固まっていました。

 

しかし、元気な人はいるもので、二人の白帯が手をあげていました。

 

私は『偉いな~』と感心しましたが、案の定白帯二人はボコボコにされました。

 

初道場稽古も無事に終了し、恐怖と緊張からの開放感は最高で、渋谷駅に向かう駅前歩道橋の上から見えた街のネオンが、物凄く綺麗に見えたのを今でも覚えてます。

 

こんな恐怖と緊張の稽古を、何百回も行わないと黒帯(有段者)に成れないのかと思うと、黒帯や茶帯までが、とても遠い存在に思えました。

 

しかし、若さゆえか、思い込みのせいか『まぁ、いつか成れるだろ~』と気楽に考えてもいました。

 

その後も2回渋谷道場に行きましたが、真樹先生は不在で、代理の方が指導されていました。

代理の先生方の稽古に恐怖感は無く、正直『ホッ』とする反面物足りない思いもありました。

恐怖というのは、癖になるのでしょうか。

 


 

 

【8】初合宿(1)

 

渋谷道場主催で、通信教育生の為の合宿が土日を利用して1泊2日で行われる事になりました。

 

私は、道場稽古にも慣れてきたので参加する事にしました。場所は、千葉県の「横芝」です。

 

私は、ここで初めて自由組手を経験しました。

 

場所は、海岸の砂浜の上で、審判は、真樹師範です。

 

相手は、私より少し背の低い、ガッシリとした年上の白帯でした。

「初め!」

の合図で組手が始まると、すぐに相手に蹴られました。

生まれて初めて人に蹴られた感想は

「うわっ!痛い!」

というもので、人に蹴られるのは、こんなに痛いのかとビックリしました。

 

その後、相手は、パンチ、キックと連続攻撃を仕掛けてきました。

防御の仕方も解らない私は、相手の攻撃が当たらないように少しずつ後退するばかりで

どう攻撃して良いのやら迷ってる間に

「やめ!」

の声が師範から掛かりました。

 

文字どおり 手も足も出ない 状態でした。

『え!もう終わり?』

というのがその時の感想です。

 

師範は、相手の白帯に向かって

「積極的に攻撃して良かったぞ!」

と仰いましたが、私には、特にコメントは、有りませんでした。

 

『相手の攻撃は、全てかわしたゾ!』

と満足していた私は、

『あ~、防御ばかりでなく積極的に攻撃すべきなのか。』

と、師範に注意は、受けませんでしたが、反省しました。

 

良い方は褒めても、良くない方は非難しない。

そのときの師範には、感謝してます。

なぜなら、憧れの師範に叱られたら、その時の私なら、かなりヘコムと思いますので。

 


 

 

【9】初合宿(2)

 

さて、合宿初日の夕方には、梶原一騎先生も駆けつけ、差し入れのスイカを皆で食べながらお話を伺いました。

 

梶原先生は、真樹先生より身体が一回り大きく、怖さというより迫力を感じました。

 

梶原、真樹両先生は、作家という職業だけに、話も面白く、合宿の雰囲気を盛り上げようとする気持ちが伝わってきて

「あ~、両先生は、顔は、怖いが道場生を大切に思っているんだな~」

と、私は、高校1年ながらも感じ取りました。

 

無事に合宿も終え、皆と別れ一人帰りの電車の中で感じたことは、

『あ~、下界へ戻ってきた。』

というものでした。

 

緊張の中、2日間『押忍(オス)』と言う言葉しか発せず、空手の稽古を長時間行っていたので、何か別世界へ行っていたような、別世界から人間界へ戻ってきたような感覚がしたのです。

 

その後、何度も合宿に参加しましたが、こんな感覚はこの時だけでした。

 


 

 

【10】神奈川支部入門(1)

 

さて、通信教育を始めて1年位が過ぎた頃、ついに私の住む神奈川県に極真空手の道場が出来ました。

 

私は、相変わらず通信教育の白帯(無級)で、このままでは駄目だと思っていたところでしたので、

即、入門することにしました。

 

「極真空手神奈川支部」は、川崎の武蔵小杉の小学校の体育館で稽古を行っていると言う事でした。

 

私は、稽古初日、期待と緊張の中、小田原駅から東海道線に乗り込みました。

1時間で横浜駅に着き、東横線に乗り換えて、武蔵小杉駅までさらに20分掛かりました。

 

駅から教えられた道順を頼りに小学校を探しましたが、20分以上歩いても小学校は見つかりませんでした。

 

夕方6時も過ぎ、辺りは、真っ暗になり、心細くなってきました。

『本当に有るんだろうか?』

道には、前に小さなオジサンがトボトボ歩いているだけで辺りは、シーンとしています。

不意に前を歩くオジサンが道を曲がりました。そこが、小学校の体育館でした。

そのオジサンも道場生だったのです。

 

暗闇の中、体育館の重い鉄の扉を『ガーッ』と開けると、中から『バッ!!』と明かりがこぼれだし、空手着を着た十数人の人が一斉にこちらを見ました。

 


 

 

【11】神奈川支部入門(2)

 

恐る恐る

「先日、お電話した者ですが」

と顔面蒼白で告げると

「お~!!」

と体育館の奥から手招きする人がいました。

支部長の渡辺先生でした。

 

渡辺師範は、当時40歳前後だったと思いますが、坊主頭の体の大きな方で、体育館の奥にある重ねた体育マットの上にドッカと座って、ニコニコとされていました。

 

私は、優しそうな師範の笑顔を見て

『この先生の元なら空手を続けられそうだ』

と思いました。

 

入門の説明も一段落したところで、私は、急に尿意を模様しました。

トイレの場所を教わり、行こうとすると、眼光鋭い細身の先輩に、『ギョロリ』とにらまれ

「トイレは、稽古前に言っておけよ!」

と、やや怒り口調で言われてしまいました。

 

その一言ですっかりビビッてしまい、真っ暗な校庭を横切り、月明かりしかないトイレで用を足しながら、心細くなり帰りたくなりました。

勿論、帰りはしませんでしたが...。

 


 

 

【12】神奈川支部入門(3)

 

神奈川支部の稽古は、火、金、日の週3回で1日に2時間近く稽古しました。

 

渋谷道場よりも量的に多く、本格的に運動するのは、初めての私にとっては、かなりきついものでした。

 

渡辺支部長は、温和な方で

『体調が悪ければ、見学や早退をしても構わない』

と仰っていました。

 

私は、いつも決まって稽古の半分ぐらいでゲロを吐きそうなくらい気分が悪くなってくるのですが、

『休ませて下さい』

の一言を言う勇気が無くて

『後、10分したら休ませてもらおう』

と我慢し、その10分後には、また

『もう、10分したら休ませてもらおう』

の繰り返しで、

結局最後まで稽古するという毎日でした。

 

稽古に行く前は、毎回のように

『今日は、早退する』

と心に決めて行くのですが、やはり早退を言い出す勇気はありませんでした。

厳しい稽古を休まず続けられたのは、

『休ませてください』

の一言を言う勇気が無かったというのが一番の理由でした。

 


 

 

【13】神奈川支部入門(4)

 

組手では、2回目の稽古で「トイレの一件」の先輩の回し蹴りが、私の顔面を直撃し

『ストン』と一瞬気を失い尻餅をつかされました。

 

また、毎回のように、下段回し蹴りで足を蹴られて、稽古後、激痛で足が曲がらず駅の階段を這うように登っていました。

 

このように白帯の私でも毎回ガンガン組手をやらされ、恐怖感が増して行く一方でした。

 

稽古の終わった後の開放感は、最高なのですが、稽古の有る日は、朝からずっと憂鬱な気分でした。

 

同期の人が数年後に、こんな事を言っていました。

『稽古の日、武蔵小杉の駅に着くと必ず駅前の喫茶店に入るんだよ。そして、行きたくない気持ちと戦うんだ。

なんとか、勇気を奮い立たせて稽古に向かうんだけど、今まで何回か帰ってしまった事が有るんだよ。』

 

とにかく、稽古のキツサへのプレッシャーと、組手の恐怖感との戦いの毎日という感じでした。

 


 

 

【14】神奈川支部入門(5)

 

当時は、極真会に対する風当たりが強かったこともあり、外から稽古しているのが見えないように、

体育館の扉やカーテンは締め切っていました。

 

真夏の体育館の中は、まさにサウナ状態で、汗が滝のように流れ落ちました。

 

こんなに汗かいたのは生涯初でしたので

『汗って、目に入ると痛いんだ....』

と新発見をしました。

 

また、当時は、

『稽古中に水を飲んではいけない』

という間違った常識が信じられていたので、稽古中の水分補給は禁じられていました。

 

稽古が終了すると、カラカラの脱水状態です。

 

疲れているのにもかかわらず、水分を求めて、近くの駄菓子屋まで皆でダッシュです。

 

仲間たちと1リットルのジュースを一気飲みして、さらに帰りに電車の中で飲むように、もう1リットル買ったものです。

 


 

 

【15】神奈川支部夏合宿

 

神奈川支部に入門して、すぐに夏合宿が行われました。

 

場所は、千葉の御宿海岸です。

 

ここで、生まれて初めてスクワット(足の屈伸運動)を経験し、合宿終了まで足の太腿に激しい筋肉痛が残り閉口しました。

 

食事時は、新米の私と同期の松井君は、先生や先輩の給仕に大忙しで、座る暇もなく御世話をしていました。

 

見かねた渡辺先生が

「もういいから、2人とも食べろ~」

と、仰っていただいたほどです。

 

御宿海岸は、海水浴やサーフィンで賑わう観光地です。

 

そこに、大勢の道着を着た人間が隊列を作って走ったり、空手の稽古をしたりするのは、かなり迷惑だったのではと思いますが...。

 

当時は、もちろんそんな事を気にする余裕は有りませんでした。

 

合宿の帰りの電車は、海水浴客で超満員でしたが、同期の松井君と椅子に座る事に成功!

 

ほぼ初対面にもかかわらず、東京まで話が弾みました。

 

この合宿で友人が出来たというのも、この先、空手を続ける原動力の一つになったと思います。

 


 

 

【16】初昇級審査(1)

 

神奈川支部に入門して数ヶ月後、始めての昇級審査が行われ、めでたく青帯(8級)に成りました。

 

審査は、いつもの体育館で行われたのですが、審査員として、大山倍達館長(当時は総裁ではなく館長)が本部より来館されました。

 

テレビや大会などで、遠くから姿を拝見した事は有りましたが、近くでお目にかかったのは初めてでした。

 

大山館長は、山のように大きく、迫力というか、オーラの様な物が、物凄くて今まで出会ったことの無い、強烈なインパクトが有りました。

大山館長以外に、あのような印象の人物には、後にも先にも出会ったことがありません。

また、話し方にも独特の訛(なまり)が有り、話術には、人を惹きつけるものが有りました。

私は、審査後、館長に

「君は、パンチ、なかなか良い」

と、言われたときには、仰天して、

「押忍(オス)!!」

と、体育館中に響き渡る大声で返事をしたものです。

審査終了後、先輩方は『サイン』を御願いしていましたが、

私たち下っ端は、端の方で羨ましそうに見ていました。


 

 

【17】初昇級審査(2)

 

審査会に来館した、大山館長は、一人の弟子を伴っていました。

 

盧山初雄先輩です。

盧山先輩といえば、極真ファンなら知らぬ者の無い物凄く強い先生です。

 

当時は、全日本選手権で優勝し、世界大会では惜しくも2位に成ったばかりの頃でした。

 

他の選手とは違う戦い方や風貌は、独特でした。

 

重心の低い構えから繰り出す強烈な蹴りは、胴体に当たればアバラを折り、足に当たれば、相手は歩けなくなるという、

凄まじいもので、正拳突きとの組み合わせで次々と相手を倒していきました。

 

試合を観客席で観ていた私は、余りの強さに恐怖を感じたほどです。

 

実際に近くで見る盧山先輩は、異常に発達した下半身、鋭い目つき、落ち着いた所作など、まさしく武道家といった感じでした。

『この、先輩とは、組手はやりたくない。』

というのが、率直な感想でした。

 

『審査を無事終えた事と、大山館長と盧山先輩に会えて良かった。』という事で、帰りの電車の中では、満足感でいっぱいでした。

 


 

 

【18】神奈川支部初心の頃(1)

 

当時、真夏の稽古に『千本蹴り』というのが有りました。

 

体育館の端から端まで蹴りながら往復し続けるという物です。

 

30分以上休み無く延々と続くのですが、初めの10分位は足が上がるのですが、後半は、だんだん足が上がらなくなってきます。

 

青帯になった私と同期の松井君は、見本代わりに最前列で行います。

 

体育館の端で、重ねたマットの上に座り監督している師範からは、

「もっと、足を上げろ~!!」

と怒鳴られますが、上がらないものは上がらないので

仕方なく体育館の端で方向転換する前の、最後の1本だけ気力を振り絞って、へそ位まで足を上げますが、方向転換して、蹴り始めると、また、へそより低くなつてしまいます。

 

師範からは、更に、

「もっと、足を上げろ~!!」

と声が掛かりますが、私たちは、『ヘロヘロ』で無反応です。

 

そのうち、師範も我慢できずに

「お前たち、ちょっと来い~!!」

と、私と松井君に呼び出しがかかります。

「なんで、お前たち、足上げないの~!?」

「....」

二人とも無言です。

 

しかし、根が正直な私は、師範の質問に正直にお答えしなければと

「押忍(オス)、もう、足が上がりません。せめて、最後の1本だけは、上げるようにしました。」

と、困り顔で正直に答えました。

 

普通、こういう時、道場生は理由など答えず

『押忍』

の一言が正しい返答なのですが...。

 

師範も困り顔で

「そうか、とにかく頑張れ。」

と、それ以上は、おとがめは、有りませんでした。

 

こんな感じで、稽古は厳しいながらも温和な師範の下、アットホームに稽古は進められていました。

 


 

 

【19】神奈川支部初心の頃(2)

 

私の実家は、裕福と言う訳では有りませんでしたので、空手の月謝や交通費は、自分で稼ぐ必要がありました。

 

そこで、朝だけ新聞配達を行うことにしました。

 

新聞配達は、当然、雨でも、雪でも、台風でも行うわけで、とてもハードでした。

 

おまけに、配達用の自転車は、オンボロで、新聞の重みでしょっちゅうパンクし

『またパンクかよ~!』

と泣きたい気分で、自転車から降りて押しながら配ったものです。

 

この後、大学生になり、色々バイトも経験しましたが、この時の新聞配達が一番きつかったです。

 

高校は、一応進学校なので勉強も結構大変で、『勉強、新聞配達、空手の稽古』で、慢性睡眠不足の状態でした。

『思いっきり、寝た~い』

が、当時の一番の希望でした。

 

身体は、きつかったのですが、神奈川支部入門後の数年間は、風邪はもちろん病気には1度もなりませんでした。

 

小学校の頃は、結構病弱でしょっちゅう学校を休んでいたのですが、やはり生活に緊張感が有ると

病気にならないのでしょうか。

 


 

 

【20】神奈川支部初心の頃(3)

 

当時は、現在のようにインターネットなどは存在せず、情報伝達手段が未発達でしたので、神奈川支部内の組手の技術も未熟でした。

そこで、技を考える必要があり、逆にそれが、楽しみでもありました。

 

今では常識の、下段回し蹴りを『膝を突き出してブロックする』などという基本的な事も、気付くまでかなり時間がかかり、痛い目をみましたが、発見した時は『これだ!』と感動したものです。

 

さらに、その膝ブロックの下を通り軸足を刈る技を思いつき、先輩方に試して、片っ端から尻餅をつかせたときは快感でした。もちろん、その後でコテンパンにやられましたが...。

軸足刈りは、その後全日本大会で選手が使っているのを観て

『あー、考えることは、同じだな~』

と自信を持ちました。

 

その他、当時考えついて、道場で使っていたのは

『ブルースリーが映画で使ったステップ横蹴りで相手を場外に押し出す。』

『飛び膝蹴りで肩の上に乗っかり上から押しつぶす。』

など、変な技ばかりでした。

 

高校の授業中は、そんな事ばかり考えていました。

楽しい思い出です。

 


 

 

【21】神奈川支部初心の頃(4)

 

渡辺師範には、初めのうちは、名前を覚えてもらえず

「小田原!」「小田原!」

と呼ばれていました。

稽古が延長される時には、帰りの電車の時間を気遣って頂いたり、車で駅まで送って頂いた事もありました。

 

神奈川支部は、その後、極真を良く思わない誰かの横やりが入り、体育館が急に使えなくなりました。

数ヶ月間は、多摩川の河原で稽古していました。

河原っていうのも、今思えば凄いと思いますが...。

 

着替えは、公園でした。

道場生もよく辞めなかったと思います。

 

しばらくして、横浜の神大寺に常設の道場が出来上がり、稽古は1日3回で毎日行われるようになりました。

 

神奈川支部入門後は、大学受験で2ヶ月程休んだ以外は真面目に稽古しました。

そのかいあって、大学1年の時には、茶帯(二級)に成りました。

黒帯まで後一歩です。

 

ちなみに、合格した大学は、幸運にも横浜の常設道場から歩いて10分程でした。

 


 

 

【22】神奈川支部初心の頃(5)

 

渡辺支部長は、勤めていた会社を辞め空手道場運営に専念する事になりました。

 

そこで、師範より、

「小田原に道場を開設しなさい。」

と、指令が下りました。

 

小田原駅近くの公民館を借り、神奈川支部初の分支部を開設しました。

指導は、茶帯の私が、担当する事になりました。

稽古生は常時30名位であったと思います。

 

数ヶ月して、隣町の平塚市にも体育館を借りて道場を開設しました。

 

以降、神奈川支部は、分支部を増やし続け、多い時は、10以上在ったと思います。

 

世の中は、まさに『極真空手ブーム』で、道場生も、どんどん増えていきました。

 


 

 

【23】初ウエイトトレーニング(1)

 

極真空手は脂肪でなく筋肉質であれば、体重の重いほうが有利になります。

 

当時の私は、身長180cm、体重70キロで、一般男性としては、まあまあですが、空手仲間と比べると貧弱でした。

 

下半身は、しっかりしていたのですが、上半身はガリガリで、一度師範に

「ジャイアント馬場みたいだな~」

と言われたくらいで、筋肉増強が必要だと感じていました。

 

筋肉増強には、ウェイトトレーニングのジムに通うことが近道です。

当時は、現在の様に『スポーツクラブ』などという物は存在せず、小田原近辺には、トレーニングできる施設が皆無で

途方に暮れていました。

 

すると、新しく平塚道場として使う予定の、市の体育館の下見の時、体育館の奥にウエイトトレーニング場を発見したのです。嬉しくて物凄く興奮しました。

 

早速、体育館事務所に問い合わせてみると、今は誰も使ってないので、鍵を閉めたままだが、トレーニング講習会を受ければ使用しても良いとの事でした。

 

数日後、後輩にも声をかけ5~6人で講習会を受けました。

 

トレーニング室は、体育館の端の目立たない処にひっそりと有るのですが、その隣にさらにひっそりとした

2畳位の小部屋が在りました。

そこに居る、60歳位の御老人が講習会の先生でした。

御老人は、体育館2階の大きな事務所には居らず、いつもその小部屋にたった1人でいるのが、不思議でした。

 

そして、ご老人は講習会の最後に、こう言ったのです。

「私、テレビに出てる誰かに、似ていませんか?」

「・・・・」

私たちが、絶句していると、

「ふ、ふ、ふ、そのうち分かると思いますよ」

と言って講習会は終了しました。

 

後で皆で話したのですが、そういえば、当時人気の『ムキムキマン』に顔が似ていましたが、親族でしょうか?

 

真実は謎のまま、数ヵ月後、御老人は、消えてしまいました。

あの小部屋は、鍵が掛けられ二度と開くことは在りませんでした...。

 


 

 

【24】初ウエイトトレーニング(2)

 

ウエイトトレーニングを始めてから2ヶ月ほどで、大胸筋(胸の筋肉)が少し盛り上がってきました。

周りの人からも、

「何かやってるの?」

「逆三角形に成ってきたね!」

などと言われ始め、俄然トレーニングに熱が入りました。

 

この、褒められるというのが、ポイントで、ウエイトトレーニングを始めるなら、最も目立つ大胸筋から開始するのが良いと思います。

 

ウエイトトレーニングの本を読み、プロテインという栄養補助食品が有ると知りました。

通販で取り寄せて魔法の薬でも手に入れたように喜んで飲みました。

 

当時は、今のようにプロテインやアミノ酸などは、世間で余り知られておらず品質も良くありませんでした。

プロテインは水に溶けにくく、ダマになり、味も粉っぽくて時々吐きそうになるくらいまずい物でした。

 

父には、

「そんな、ドッグフードみたいなもの飲んでも駄目だ。米を、腹いっぱい食え!!」

などと、栄養学をまるで無視したアドバイスを何度ももらい、腹が立ちました。

 

徐々に重い重量も挙がるようになりトレーニングも面白くなってきました。

体重も1年で2~3キロ増え、益々ハッスルしました。

 


 

 

【25】黒帯取得

 

大学2年の時に念願の黒帯になりました。

実は、私は、渡辺師範より黒帯の昇段審査を受けるように言われた時、まだ、時期尚早と、お断りしたところ

師範に

「取れる時に取っておけ!!」

と、一喝され黒帯を取得したので、念願の黒帯も、余り嬉しさとか感激は、ありませんでした。

まだまだ、強くなりたい、その通過点に過ぎないという感じでした。

しかし、初めて黒帯を締めた時は、かなり照れくさく、後輩に

「おめでとうございます」

などと言われてもどんな顔をして良いのやら、ただ、ただ、引きつった笑顔を返しただけでした。

 


 

 

【26】初試合(1)

 

黒帯を取得後【全日本空手道選手権大会】に出場する事になりました。

 

当時は、今のように地方大会などは、開かれておらず、全日本大会に出る各県代表選手は、各県支部長の推薦で決まっていました。

渡辺支部長の推薦で、同期の松井君と私の二人が、神奈川の代表選手になったのです。

 

さて、大会当日、千駄ヶ谷の東京都体育館に着くと、体育館前は、開場を待つ観客で長蛇の列です。

その、ど真ん中に在る選手通用口から、観客の注目の中、会場に入るのは、何かとても気持ち良いものでした。

ちなみに、東京都体育館は、現在の体育館に建て直される前の物で、かなり年季の入った昭和を感じさせる様な建物でした。

 

大会は、2日間に渡る128名のトーナメント方式で行われます。

初日は1.2回戦が行われ勝ち抜いた32名が、翌日に進みます。

 

私の緒戦の相手は、極真選手ではなく他流派の選手でした。

私は、

『極真は、他流派には負けない』

という大山館長の言葉を信じている『極真信者』ですから、負けるとは、これっぽっちも考えていませんでした。

さらに、ロッカールームで相手選手を見て勝利を確信しました。

なんと、タバコを吸っていたのです。

目を疑いました。

 

『ドン!』

という太鼓の合図で、試合が始まりました。

特に緊張も無く

『よし、来い!!』

と鼻息も荒く突進していき、特に作戦も無く普段の道場組手のように無心で連打しました。

試合開始してから少しして、無意識に出した基本技のワンツーパンチからの左回し蹴りが相手の顔面にヒットし、

相手は昏倒しました。

『え?当たっちゃったの?!』

これが、感想です。

 

生涯初の試合で一本勝ちを納めた私は、調子に乗り次の試合も勝ちました。

これで、2日目に進出です。

 

次の対戦相手は....。

極真のスーパースター『二宮城光四段』です!

 


 

 

【27】初試合(2)

 

対戦相手の二宮選手は、華麗な試合運びとルックスで、映画等でもたびたび取り上げられた、極真の人気選手でした。

 

アメリカに渡り、道場を開き、この全日本大会出場のため来日したのでした。

今大会優勝候補№1です。

 

新米黒帯で大会初出場の私にとっては、勝つとか負けるとかの次元ではなく、

『試合できるだけで光栄ですぅ~。』

といった感じで、サインが欲しい、握手してもらいたい、という憧れの対象でした。

 

大会初日終了後、後輩が、私に向かって言いました。

「先輩! 明日の二宮戦がんばって下さいっ!」

「おう!まかしとけ!」

「げっ! 緊張してない!」

私は二宮戦に向けて、まったく緊張していなかったのです。

それは、何故か?

それは、私自身も周りの人達も誰一人として私が勝つと思っていないからです。

つまり、『負けてもともと』という訳で少しでも善戦すれば、絶賛されるはずでとても気が楽だったのです。

 

『明日は、一丁やったるか~』

という感じでその夜は、熟睡しました。

 


 

 

【28】初試合(3)

 

一夜明けて、いよいよ二宮戦当日になりました。

ロッカールームで二宮選手を遠目で盗み見て、驚いたことが2つ有りました。

 

まず第1に、二宮選手の雰囲気が、暗いということです。

試合では、華やかでキラキラしたイメージであったのですが、ロッカールームでは、端の方で、たった1人で、じっとうつむいているのです。試合に向けて精神集中していたのかもしれませんが、試合場の様なオーラは感じられませんでした。

 

もう一つは、二宮選手の履いていた靴下に大きな穴が開いていたということです。

『アメリカから、わざわざ穴の開いた靴下をもってくるなんて、何かのジンクスかな?それとも、細かい事は気にしない人なのかな?』

などと、不思議に思いました。

 

さて、いよいよ試合開始です。

勝てる訳が無いと思っていた私は、負けるとしても、少しは大先輩を慌てさせようと作戦を立てました。

 


 

 

【29】初試合(4)

 

「初め!」の合図と共に、私は、駆け込む様に二宮選手に近づき、わざと大きなモーションで右下段回し蹴りを放ちました。当然のように、二宮選手が左膝でブロックした時に、さらに接近して両手の平で肩を押さえつけ膝蹴りを腹部に蹴り込みました。二宮選手が、下がったので、そのまま場外まで膝蹴りを連打しました。

作戦成功です。

「やめ!」

と、審判の声がかかり、場外から試合場中央に戻り試合再開です。

 

観客席は、ざわついていました。

 

しかし、作戦は、ここまでで、後は考えてありませんでした。

後は、夢中で戦いました。

 

この後の記憶はあまりありません。

後半、私は、疲れてきて二宮選手の得意の足払いで、尻餅をつき、

さらに、終了間際にパンチが、『スッ』と伸びてきたのが、スローモーションのように見えたのですが、受けきれず、鳩尾(腹)を直撃しました。

余りの衝撃に、場外に逃れました。

ダウンこそしませんでしたが、『技あり』を取られました。

 

大差の判定負けで、私の全日本大会は、終わりました。

二宮選手は、その後順調に勝ち進み優勝しました。

 


 

 

【30】初試合(5)

 

後に大山館長から、二宮戦について『戦い方が良かった』と評を頂きましたが、心の中では、

『そんな事は、在りません。負けたのですから...』

と、複雑な思いでした。

私は、

『たぶん、駄目でしょ』

などと言われると、結構燃えるのですが、逆に、褒められても、素直に受け取れないところが有ります。

 

しかし、人に褒められたら、それがお世辞だとしても素直に受け取り、自信に換えた方が良いと思います。

最近では、努めてそうしています。

もっとも、この所、人に褒められる事も少ないですが...。

 

この後、数年間に渡り全日本選手権大会に挑戦しましたが、この初出場の時以上の成績は、あげられませんでした。

 

当時の自分の環境の中で精一杯稽古した結果なので、後悔は有りませんが、20年以上経った今でも、勝てなかった当時の試合を思い出すと、胸の奥が少し重苦しくなります。

『青春のホロ苦い思い出』といったところでしょうか。

 


 

 

【31】初めての総本部道場

 

初めて池袋に在る極真会の総本部道場に行ったのは、新年の鏡開きでした。

 

前日、川崎に在る渡辺師範の家に泊めて頂き、神奈川の他の黒帯達と共に車で向かいました。

早朝に、本部道場横の公園に車を止めて、車中で着替えて道場に入りました。

 

始めて見る本部道場ビルは、当たり前ですが、雑誌などで見るのと同じでした。

ただ、イメージしていた物より、ずいぶん小さいので驚きました。

 

薄暗いコンクリートの階段を上った2階道場では、すでに基本稽古が始まっていました。

やはり、道場も写真やマンガで見ていたものと同じですが、とにかく狭く小さく感じました。

 

道場には、百名は、いたでしょうか、すし詰め状態でした。

私達一行は、隅のほうに加わり、他人にぶつからぬよう小さい動きで基本稽古を、チョコマカとこなしました。

 

前列には、大山館長を初め有名な先生、先輩方がおられ、真冬なのに異常な熱気でした。

稽古は、基本のみで終了し、後は、お雑煮が振舞われました。

 

そして、ミニ宴会です。

司会は、神奈川支部の昇級審査にも来て頂いた、恐怖の盧山先輩でした。

 

ところが、盧山先輩は、本当に試合場と同一人物かと疑いたくなるような面白い方で、軽妙な語り口と、巧みな司会進行、そして、大山館長も苦笑いのギャグを連発し、宴会は、大いに盛り上がったのでした。

 

私は、盧山先輩が余りにも今までのイメージと違うので仰天してしまいました。

楽しい思い出です。

 


 

 

【32】初めてのジム入会(1)

 

平塚の体育館で始めたウェイトトレーニングも、少しマンネリになってきました。

一緒に始めた後輩達も一人減り二人減り、結局私一人になってしまいました。

一人で行うトレーニングは、面白みにかけます。

挙上記録も頭打ちで、体重も75キロ位から増えなくなりました。

そこで、江ノ島にジムがオープンした事を知り、早速入会しました。

 

ジム『アスレティツク湘南』は、私の自宅の小田原から東海道線と江ノ電に乗り1時間ほどの藤沢市に在りました。

江ノ島駅から歩いて5分くらいの閑静な住宅街にある、民家の1階をジムに改造した、小な看板が目印の、こじんまりとしたジムでした。

 

トレーニングルームの天井は、半透明で、湘南の暖かい日差しが降り注ぎ、ポカポカと気持ちよくトレーニング出来る様に作られていました。

 

会員は、年配の方が多く、競艇や競輪の選手なども在籍していました。

湘南という場所柄か、なんとなくハイソな雰囲気の会員が多くジムも、落ち着いたサロンの雰囲気がありました。

 

オーナーでもありコーチでもある近藤会長は、確か29歳位だったと思います。

この長淵剛似でプロレス大好きの近藤会長が、とにかくカッコ良くて、そのライフスタイルは、午前中は江ノ島海岸でボディーサーフィンなどで楽しみ、午後からジムを開け、夜は美味しいものを食べに行く、といった感じでした。

 

私は、ジムが終了した後に、何回か食事に連れて行ってもらったり、遅くなると2階の自宅に泊めていただいたりしました。

『湘南ボーイは、カッコイイナ~』

と、私にとっては、憧れの生活でした。

 

どの位、憧れていたかと言うと...、

大学4年の時、藤沢に在る某会社の就職面接試験で

「あなたは、なぜ、我社を選びましたか?」

と面接官に聞かれたとき

「御社の業務が~...」

などと答えるべきところを、

「江ノ島あたりに将来住みたいので~」

などと、トンチンカンな答えをし

「うちの、給料じゃ無理だよ...」

などと、失笑をかったくらい、近藤会長を羨ましく思っていました。

 

また、会長には、よく

「君も、将来ジム開いたら~?」

などと言われ、数年後には、本当にスポーツジムにコーチとして就職しました。

それくらい、会長には影響を受けました。

 


 

 

【33】初めてのジム入会(2)

 

『アスレティツク湘南』には、サウナがありました。

今では、サウナなど、スポーツクラブやプールに当たり前のように付設されてますが、当時は、めずらしく、当然私にとっては初体験です。

勝手が解らず会長の見よう見真似でサウナ室の中で暑いのを我慢したり、生まれて初めて水風呂に飛び込んだりで大興奮でした。

家に帰れば、親兄弟に

「サウナに入ったぞ!」

などと、つまらない自慢をするほど、一人で感激していました。

 

また、会長は、マッサージの資格も持っていてマッサージの練習にと無料で施術していただいたりもしました。

 

ジム主宰の、飲み会や、パーティーの様なものも頻繁に行われました。

ホッピーパーティーで、生まれて初めて飲んだホッピーの余りの美味しさに、飲みすぎてゲロを吐いたのも良い思い出です。

 

大学時代の唯一のハイソな時間と空間でした。

 


 

 

【34】初めてのジム入会(3)

 

『アスレティツク湘南』では、毎回、会長からウエイトトレーニングの個人指導を受け、大体の基本的なフォームや

呼吸法は、ここで身に付きました。

 

挙上重量もどんどん増え、体重も少しづつ増え80キロ台になりました。

 

ウエイトトレーニングの良いところは、コンスタントに行えば、必ず効果が上がり、結果が、体型、体重、挙上できる回数や重さに、ハッキリ数字として現れることです。

 

『アスレティツク湘南』に通った後、数回引越ししましたが、そのたびにトレーニング施設を見つけては、間が開かぬようにトレーニングを行い現在に至っています。

 

筋力を付けるのは非常に難しいけれども、それを維持するのは、割と簡単です。

 

50歳を過ぎた今でも30代の記録とほぼ同じ挙上ができます。

種目によっては、今でも微妙に記録が向上しているものもあり、とても励みになります。

 

体型も30代とほぼ同じで、体重計や血圧計、体脂肪計なども完備されている『トレーニング場』というのは、健康管理の面でも私にとって大切な場所になっています。

 


 

 

【35】百人組手

 

真夏の蒸し暑い日に、池袋の本部道場で百人組手が行われることになりました。

 

百人組手とは、文字どおり百人続けて組手を行う極真空手の荒行で、過去にも数人しか達成者がおらず、久しぶりの挑戦ということでした。

 

三瓶啓二先輩、中村誠先輩、三好一男先輩、の三人が挑戦するということで、黒帯の数が本部だけでは足らず、東京近辺の支部の黒帯に召集がかかりました。

神奈川支部も黒帯のほぼ全員が駆けつけました。

 

道場は、ただでさえ真夏で暑いのに映画の撮影機材が入り、その照明で物凄い熱さでした。

さらに、大山館長から水分補給を禁じられていて、三先輩とも大変過酷な状態でした。

 

大山館長からは、対戦する私達に

「手を抜かず全力で攻めなきゃ駄目だよ! きみぃ~!」

と何度も指示されました。

 

百人組手を達成して欲しいと願う私たちは、ふらふらな先輩方にどう向かっていけば良いやら困惑しました。

 

残念ながら、三先輩とも百人は達成できませんでしたが、修行とはいえ一般常識からは、かけ離れた過酷で異常な空間と時間という感じでした。

 


 

 

【36】黒帯研究会(1)

 

黒帯を締めるのにも慣れてきた頃、神奈川支部の黒帯全員は、池袋の極真会館本部の黒帯研究会、

通称『帯研』に研修に行くことになりました。支部長命令です。

 

『帯研』は、毎週金曜日の夜と日曜日の昼間に黒帯のみが集まり稽古します。

 

『帯研』初日、私達神奈川支部の黒帯は、今はもう在りませんが池袋駅西口にあった広い公園で待ち合わせしました。

確か5~6人だったと思います。当然、皆緊張から、顔面蒼白で会話も少なく重い足取りで本部道場へ向かいました。

 

本部道場に着くと、まず地下の更衣室に向かいました。

階段を下から中村誠先輩が駆け上がって来ました。

『ウワッ! 中村先輩だ!』

私たちは、さっと左右に分かれて道を開け

「押忍(オス)!!」

と挨拶しました。

中村先輩は、私達には眼もくれず無言で走り過ぎて行きました。

黒帯は、普通後輩が『押忍』と挨拶しても『押忍』とは返しません。

 

地下の更衣室に着くと三瓶啓二先輩が着替えていました。

『ウワッ! 三瓶先輩だ!』

私たちは、すかさず

「押忍(オス)!!」

と挨拶しましたが

三瓶先輩は

『君たち誰?』

というような不思議な目で一瞬こちらを見ました。

他にも更衣室には、大会や雑誌などで目にした有名な先輩方がたくさんおられ圧倒されました。

 

単なる極真ファンなら大喜びですが、これら一緒に稽古すると思うと更に緊張が深まりました。

 

私たちは、隅のほうで遠慮がちに着替えて二階の道場に上がりました。

 


 

 

【37】黒帯研究会(2)

 

『帯研』は当時、大山館長が指導される事もあったのですが、館長不在のことが多く

ほとんどは、南里宏先輩が中心となり稽古が進められていきました。

 

この南里先輩という方が、すごい人で、当時は40才前後だと思いますが、体力特にスタミナ抜群で

一廻り以上も若い黒帯たちもタジタジという感じで皆から一目を置かれていました。

とにかく、南里先輩が疲れたところは、見たことありませんでした。

 

『帯研』の稽古は、90分間で移動稽古中心で組手は行われていませんでした。

ですから組手による恐怖感はありませんでしたが、地方から研修に来ている私達にとっては、本部独特の雰囲気に物凄い重圧感を感じました。

 

私は、最初の数ヶ月間は、『帯研』に行く時、池袋の駅に降りるといつも決まっておなかの調子が悪くなり、東武百貨店の地下トイレに駆け込んでいました。

 


 

 

【38】黒帯研究会(3)

 

『帯研』には、松井章圭さんも千葉支部から通って来ていました。

 

いつも稽古の並び位置が私の隣なのですが、初めて隣で稽古した時は、その技の切れ、華麗さに、

横目ではありますが、目を奪われました。

 

地元に帰ってきて

「松井さんの技は、凄い!」

「至近距離でもあらゆる蹴りが出る!」

「動きの、どの瞬間でもバランスが良くて絵になる」

と知人達に驚きを伝えたぐらいです。

 

しかし、松井さんが、将来2代目極真会館館長になるとは、当時は想像もしませんでしたが...。

 


 

 

【39】黒帯研究会(4)

 

『帯研』に通い始めてから、神奈川支部の黒帯達は1人減り2人減り数ヶ月後には、私1人になっていました。

 

『帯研』では、私だけ、サンドバックを延々叩かされたり、目白の街をランニングする時、

『極真ファイト!~』

と延々と号令をかけさせられたりと言うような事が、たまには有りましたが、特にいじめられたとか、やな思いをした事はありませんでした。

 

しかし、地方支部から来た私に話しかけてくれる人も余り無く、ただ、黙々と一人で稽古に通うという感じでした。

 

その中でも、青木さんという同期の本部の黒帯の方は、無口な方ですが、いろいろと声をかけてくれました。

 

ランニングの号令の時に、私がバテテ声が出なくなって来たら

「もう少しですよ」

と声をかけてくれて、最終的には号令を替わってくれました。

 

私が他の本部黒帯の人と些細な事でトラブルのなりそうになった時に仲介してくれて事なきを得た事も有りました。

 

また、忘年会で遅くなり、私が終電に乗り遅れて途方に暮れていた時に、共にサウナに泊まったりもしました。

 

その後、海外に指導員として派遣されたと聞いています。

 


 

 

【40】黒帯研究会(5)

 

ある日の『帯研』に中村辰夫先輩が出席されました。

 

中村先輩は、身体は余り大きくありませんが、伸びるパンチ、そして柔軟な股関節で顔面を襲う回し蹴りで、全日本大会でも活躍した選手です。海外指導を終え帰国したばかりで、本部に立ち寄ったついでに『帯研』に出席されたようです。

 

わたしは面識は有りませんが、大会観戦で中村先輩の顔だけは、知っていたので

『あれ! 中村先輩だ。なんでここにいるんだろう?』

と、思っていると、少しして中村先輩が、私の所へ近づいてきました。

「君、少し組手やろうか。」

「押忍!」

「軽くで良いよ!」

「押忍!」

いきなり、初対面で有名な先輩に一人だけ指名されて驚きました。

 

組手は、先輩の言うように軽いもので、黒帯同士に有りがちな、徐々に、お互い興奮して強く打撃すると言うことも無く、

技の交換をするといった感じでした。

 

組手の最中に、一番驚いたのは、先輩のパンチの連打で、物凄く伸びるのです。

まるで肩が外れて腕が伸びるような感じに見えて、肩や腰の使い方が上手いのだと思いました。

 

また、余りに先輩のスピードが速いのと、急角度の左顔面回し蹴りを警戒して、私は、後ろに構えた、右足や右手では攻撃せず、早く相手に届く前足の、左足と左手を使い攻防しました。

「君は、左利きか?」

「押忍、いえ、右利きです。」

この言葉で組手は終了しました。大変勉強になりました。

 

この組手の経験をきっかけに、私は、早く相手に届く前足前手を多用する組手に徐々に変化していきました。

有難い組手体験でした。

 


 

 

【41】黒帯研究会(6)

 

『帯研』には通っていましたが、本部ではなく地方支部の私は、当然顔が知られておらず、初めのうちは肩身の狭い思いをしていました。たとえば、こんなことがありました。

 

本部道場の入り口には、案内と警備を兼ねて新人の内弟子が1~2人立っています。

 

『帯研』に通い始めて1年くらい経った、ある『帯研』の日、入り口を入り地下の更衣室へ行こうとすると、内弟子に

「何ですか!?」

と、呼び止められました。

道場破りか何かと間違えられたようです。いまさら

『私、神奈川の黒帯です....。』

などと言うのも照れくさく、どうしょうかと言葉を捜していると、

入り口左手の事務室の奥から、当時内弟子の寮長だった、竹山晴友さんが駆けつけて来ました。

「黒帯の先輩だっ!! なんですか、じゃないだろう!」

「押忍!失礼しました。」

ほっとしましたが、恥ずかしい思いをしました。

 

当時の、本部道場における私の立場を物語っているエピソードです。

 


 

 

【42】食事会

 

毎週金曜夜に、『帯研』後、大山館長と内弟子との食事会というのがありました。

 

内弟子というのは、道場の裏手に在る寮に住み込んで、会館の業務をこなしながら空手の稽古に専念している稽古生のことです。当時は、十数人いました。

 

私は1度だけ館長より

「食事会で食べていきなさい」

と招待されたことがあります。

他支部から来ていると言う事で、内弟子では無いのですが特別に招待されたようです。

招待されたのは、神奈川支部の私と、千葉支部の松井さんの二人でした。

 

食事会は、内弟子の寮の1階の細長い食堂でおこなわれました。

長く1列に並べられたテーブルに2列に向かい合って座り上座の正面に館長が座られていました。

テーブルの上では、大きな鳥水炊きの鍋が数個良い匂いを漂わせていました。

味は、抜群でしたが、上座の館長のすぐ近くに座らされた私は、緊張で美味しさも上の空でした。館長から

「もっと食べなさい!」

「食べなきゃ強くなれないよ。キミィ!」

とさかんに勧められ、更に食後にはどら焼きも出て超満腹になりました。

 


 

 

【43】就職、退職

 

無事4年間で大学を卒業し、横浜の電気会社の経理課に就職することになりました。

 

就職のため、小田原、平塚、の道場指導は後輩に譲りました。

 

しかし、就職してみると、残業、休日出勤などで、なかなか稽古の時間が取れず、非常に悩みました。

『このまま、趣味程度で空手を続けて行くのか?』

『大会には出なくても良いのか?』

真剣に考えた結果、

『もっと強くなり、大会に出たい』

『後で後悔しないような納得できる稽古がしたい』

と言う事で就職した夏に会社を辞めました。

 

当然、大学新卒という条件を全て無駄にするわけで、周囲も呆れていました。

 

空手のために会社を辞めるなどというのは、非常識なことは承知していましたが、当時の私にとって心身共に強くなる為の修行としての稽古は、現在と将来の生活の安定より大事だったのです。

 

また、当時の極真の大会の上位入賞者は、指導員か、最低限の生活費をバイトで稼いで、残りの時間を稽古に当てるという様な選手が殆どでした。

 

プロ選手のように毎日稽古して、大会で勝っても一銭にもなりません。しかし、純粋に強さを競う大会は、お金では、計れない魅力が有ったという事です。

 

会社を辞めた翌日より、早朝に自主トレをし、昼は大学時代にバイトしていた喫茶店の厨房で働き、

夕方以降は道場稽古をするという空手中心の生活が始まりました。

 

初日に、早朝ランニングしながら日の出を見た時、あまりの爽快感に

『あ~、これだな! これで良かっんだ』

と、迷いもふっきれました。

 


 

 

【44】座間道場(1)

 

退職するかで悩んでいた頃、本部『帯研』で知り合った中村辰夫先輩から電話を頂き、

『座間に道場を開いたので稽古に来ないか』

とお誘いを受けました。

そこで、早速、座間道場に通う事にしました。

 

座間道場は、神奈川県の中央に位置しています。小田急線座間駅から5分程の幼稚園を夜借りて稽古していました。

 

稽古に言ってみると、神奈川県と言う事で、知った顔が沢山いて違和感無く稽古出来ました。

 

中には、後に全日本大会で準優勝したり大活躍する小笠原和彦君もいました。

小笠原君は、同期の松井君が開いた神奈川の分支部道場の出身で、私の小田原道場にも来たことが有ったそうです。

当時は、東海大学の学生でした。

 

彼とは、帰りの電車の中で缶ビールを一気飲みしたり、皆で集まって騒いだり、とプライベートでも盛り上がりました。

また、共に、厚木の青少年会館のウエイトトレーニング場に何度か行ったりもしました。

ウエイトトレーニングは余り熱心でなく、同僚に

「小笠原はトレーニングではなく、お喋りに来ている。」

と言われるほど喋ってばかりいましたが、いざ、バーベルを上げると重いのを軽々扱うので、ああいうのを天才と言うのでしょうか。

 


 

 

【45】座間道場(2)

 

しばらくして、座間道場に池袋の本部道場から茶帯が移籍して来ると言う事で、皆、興味津々でした。

 

やって来たのは、後に全日本チャンピオンになり世界大会でも活躍することになる黒澤広樹君でした。

 

当時大学生だった黒澤君は、まだまだ、身体も出来上がっておらずベンチプレスも110kg程度だと言っていました。

 

しかし、技の華麗さバランスは素晴らしく後輩ながらも見とれてしまいました。

後の大会では、下段蹴りの印象が強いのですが、上段の蹴りも流れるように美しく繰り出していました。

ただ、当時は腰の具合がだいぶ悪かったようで、稽古中に腰を抑えてうずくまるのを2回ほどみました。

 

黒澤君の、エピソードを幾つか紹介しますと、

 

家に、オリンピックバーベルが在る。台所だったかな。

 

ウエイトトレーニングは、一流のジムしか行かない。

一度、私や小笠原君の通う青少年会館のトレーニング場(オンボロ)に来ましたが、見るだけで殆どトレーニングはしませんでした。

 

プロテインは、品質の良いものしか飲まない。

「新しいのが出たので古いのは中止しますが、良ければ先輩、余った古いの飲みますか?」

と言われ、二つ返事で貰ったプロテインは私が使用している物より1ランク上の物でした。

 

ウエイトのトレーニングコーチが彼だけの為に強化合宿を行う。

「先輩、一緒に行きませんか?」

と誘われましたが、仕事が休めず断りました。残念でした。

 

と、こんな感じで、なんとなく私達庶民とは違うハイソな雰囲気があり、また、将来の大物を予想させました。

 


 

 

【46】座間道場(3)

 

座間道場に通い始めてしばらくした頃、バイトしていた喫茶店が閉店する事になってしまいました。

 

よく考えた末、『この際思い切って東京に住んで池袋の本部道場に通おう』

と決心しました。

 

座間道場では、中村先輩に送別会を開いていただきました。

 

私の号令で、送別会の最後に全員で『中段突き30本』を行い、会は終了しました。

 

皆に見送られて一人駅へ向かう私に、後輩2人が追いかけてきて『餞別』を渡してくれました。

皆が、カンパしてくれた『お金』でした。

 

ほぼ、一文無しで上京予定の私にとって大変助かりました。

貧乏な後輩たちばかりだったのに申し訳なかった。

大切に使わせていただきました。

 

ありがたく、胸の熱くなる思い出です。

 


 

 

【47】初めての一人暮らし

 

初めての1人暮らしは、貧乏ながらも開放感いっぱいで快適でした。

 

住まいは、どうしても本部道場の在る大都会池袋には住む気になれず、池袋から東武東上線で20分くらいの

埼玉県『朝霞市』に決めました。

 

アパートの家賃は12,000円でした。

4畳半一間、トイレと玄関は共同で、もちろん風呂や電話は有りません。

周は畑ばかりのノンビリとした田舎町という感じでした。

道は起伏にとみ、朝のランニングコースは豊富に有りました。

 

大きな荷物は、知人に貰った小さな冷蔵庫とテレビ、布団くらいで、引越しは、実家の乗用車で1回で済みました。

 

銭湯に通ったり、コインランドリーで洗濯したり、自炊のため買い物したり、新生活にうきうき気分でした。

 

ウエイトトレーニング場は隣の志木市の体育館に立派なものがありました。

この頃より、公共体育館に割と豪華なトレーニング施設が登場し始め、安価でトレーニングが行えるので助かりました。

 


 

 

【48】本部道場一般部

 

池袋の本部道場の一般部の稽古には初めて参加するのですが、『帯研』には、休まず通っていたので、黒帯の先輩方とも面識が有り、割と違和感無く一般部に溶け込めました。

 

本部道場は、1日3部制で稽古が行われていました。

私は、4時からの2部に通うことにしました。

当時2部には、三好先輩や宮本先輩たちを中心に多くの黒帯が稽古していました。

 

ちなみに、午前の1部は、千葉支部から移籍してきた松井章圭さん。夜の3部は、七戸さんや石井さん達が稽古していました。

 

朝は、朝霞の田舎道を1時間ほどランニングを中心に朝稽古し、朝食後、池袋パルコの鉄板焼き屋の

厨房で9:00~3:00まで働きました。その後、本部道場で4:00~6:00の稽古をして、夜は、

ウェイトトレーニングなどを行うというスケジュールで、日曜日は休息日としました。

 

当然、夜は熟睡でした。

 


 

 

【49】バイト

 

私は、子供の頃から調理が好きで学生時代のバイトも全て調理の仕事をしていたので、池袋パルコの

鉄板焼き屋『バリハリ』の仕事もすぐに採用になりました。

 

調理の仕事には必ず食事(まかない)が付くのでどんなに貧乏に陥っても安心です。

 

『バリハリ』の仕事は結構ハードで、鉄板がある厨房はびっくりするくらい暑いのです。

食事も休憩室などと言う物は無く、厨房で立って食べるのです。

 

大都会池袋だからか、働く人達もなんとなく殺気立っていて、田舎町小田原の楽しくノンビリとした厨房とは、だいぶ違いました。

入ったばかりの頃に、チーフに理不尽に怒鳴られて悔しさで涙が出そうになった事もありました。

翌日の朝出勤するとパートのおばさんに

「もう、来ないかと思ったわ。」

「チーフも虫の居所が悪かったのよ」

と、慰められました。

しかし、あの時は悔しかった...。

 

この時期に調理師免許も取得しました。

一応将来の事も少しは考えてはいたようです。

 


 

 

【50】猛暑

 

本部道場に移籍して、初めての夏は猛暑でした。

 

熱帯夜の自宅4畳半の部屋は、室内にある冷蔵庫の放出する熱気で外気温より高くなり、無風の日は、窓を開けても暑くて睡眠もままなりません。あまりの暑さに、夜は家の前の公園のベンチで寝たという、3畳に住む先輩もいました。

 

連日の猛暑で体力はドンドン低下し、『バリハリ』のバイトが終わった頃にはへとへとで、エアコンの効いたパルコ地下の通路の片隅で体育座りで膝を抱えて、稽古に備えて居眠りした事もありました。

 

パルコの更衣室の在る地下から地上の出口へ向かい階段を一段ずつ上がっていくと、一段ずつ冷房の冷気が弱まり外気温に近づいていくのです。地上に出ると、真夏の真丸な太陽が照り付けていて、猛烈な暑さに

絶望的な気持ちになりました。

 

道場では、同僚がこんな一言をもらしました。

「オレ、最近稽古すれば、するほど弱くなるような気がするんだよナー。」

同感でした。

 

稽古ではなく、暑さとの戦いという感じでした。

とにかく、きつかった...。

 


 

 

【51】本部の稽古(1)

 

本部道場2部の稽古指導は、原則として内弟子の黒帯が行い、他の黒帯は、最後列で自分の稽古に集中して、号令などは掛けませんでした。

 

しかし、たまに、内弟子が用事で不在の時は、出席している黒帯が手分けして指導する事になります。

 

私も、何回か指導しましたが、やはり支部で指導するのとは違い、本部では、それなりの緊張感がありました。

 

稽古は、号令をかけ道場生の様子を看ながら行うより、自分の為に集中して行う方が、当然充実感があります。

 

見た感じは、どちらも同じに見えますが大違いで、私はひたすら自分の為に稽古するほうが好きでした。

 

稽古は、基本が30分くらい、移動稽古が60分くらい、組手や補強運動が30分くらいという感じでした。

 

組手は、黒帯同士行い、その後色帯の相手をしますが、余り激しく行うようなことは有りませんでした。

 


 

 

【52】本部の稽古(2)

 

普段は、2部の稽古に出ていたのですが、1部や3部にも、何回か出たことがありました。

 

1部は、松井さんが指導していました。理論的で量より質という感じの知性的な稽古でした。

とても落ち着いた雰囲気でした。

 

3部は、七戸さんが指導していました。とにかく量が凄くて基本の本数も50本から100本くらいで基本技1つ終わるごとに

腕立てやスクワットなどの補強運動を挟み、また基本技を行うという繰り返しで質より量という感じでした。

また、人数も夜なので最も多く、熱気と迫力は凄いものがありました。

とにかく野生的な雰囲気でした。

 

私が、稽古していた2部は、これら1部と2部の中間といった感じのオーソドックスな稽古であったように感じます。

 


 

 

【53】本部の稽古(3)

 

稽古中の補強運動の中に『腹踏み』というのが有りました。

 

黒帯が一列にマグロのように床に仰向けに寝そべり、色帯の後輩達が一列になり順に10回ぐらいずつ腹の上で足踏みしていくのです。

 

後輩たち全員ですからかなりの数腹を踏まれます。

 

腹圧をたかめ、腹筋を鍛えるのが目的らしいですが、私は、余り好きではありませんでした。

 

黒帯の中にも不得意な人がいて、よく吐きそうになって抜けていました。

 

『腹踏み』は、本当に身体に良いのでしょうか?

『腹踏み』で、打撃に強い腹筋が創れるのでしょうか?

他に方法が有りそうですが...。

 

私は、余り好きな稽古方法では有りませんでしたが、とりあえず行っていました。

 


 

 

【54】本部の稽古(4)

 

2部の黒帯たちは、皆、仲が良くて個人競技なのに連帯感が有りました。

大会という共通の目標に向かって皆で向上しようという雰囲気がありました。

稽古は、1日も休まないようにと、お互いに励まし合っていました。

 

また、黒帯同士なのでお互いに尊重しあうところが有り、たとえ先輩でも後輩黒帯に対して

理不尽な扱いはしませんでした。

 

当時、支部から移ってきた私にとって黒帯同士で使う耳に新しい言葉使いが幾つかありました。

ニュアンスは、文章では伝わりにくいのですが、特に「やったらいい」「失礼」の二つが印象深く記憶に残っています。

 

黒帯同士で何かを勧めるとき「○○を、やれ」とか「○○を、しろよ」などの命令形に近い言葉は使わずに

「○○したらい~」「○○やったら、いいでしょう~」という言葉を使っていました。

 

また、黒帯同士で、冗談を言い合ったりしたときに、「やめろ」とか「ふざけるな」というところを

「失礼だな~」「それは、失礼でしょう」などという言葉を選び、親しき仲にも礼儀が漂っていました。

「大会に出るからには、それなりの稽古をした上で無ければ、相手に失礼である」

ということも言われていました。

 

2部稽古の人間関係で不愉快な思いをしたことは一度もありませんでした。

大変気持ち良い距離感でした。

 

相手のプライドも尊重し、自分もプライドを持って稽古に励む、男の、いや、漢(おとこ)の集団という感じでした。

 


 

 

【55】飲み会、食事会(1)

 

2部では、稽古後たまに皆で飲みに行ったり、食べに行ったりしました。

 

よく行ったのは、池袋駅西口に在った『養老の瀧』本館で、稽古で脱水状態にして飲むビールは最高でした。

 

夏に、本部道場横の公園で宴会をしたこともあります。ラジカセで矢沢永吉をがんがんかけて、皆、上半身裸で盛り上がりました。なぜか、カメラを持っている人がいて、後日みんなに集合写真が配られました

今でも宝物として大切に持っています。

 

また、皆、貧乏人ばかりなのに、飲んだ後に、ラーメンや冷麺を食べたり、巣鴨までわざわざカラオケスナックに行ったりしました。(私はサザンを歌いました)

 

私などは、超貧乏で財布にはいつも千円くらいしか入っておらず2千円以上は支払った覚えがありません。

他の人もだいたいが同様の経済状態でした。

いったい誰がどう支払いしていたのか、今だに良くわかりません。

先輩方、ご馳走様でした。

 


 

 

【56】飲み会、食事会(2)

 

『当時食べた、B級グルメベスト3』

 

第3位は、養老の瀧のカレイのから揚げ。サクサクと揚げ加減が最高!! 行くたびに必ず注文しました。

 

第2位は、池袋西口の公園近くに在った韓国料理屋のユッケビビンバ。生まれて初めて食べたユッケの美味さにはびっくり!!

 

第1位は、三好先輩に

「旨い焼き鳥屋が在るから行こう」

と、わざわざ中野まで行って食べた焼き鳥です。

中野ブロードウェイの北の方にあるカウンター中心の屋台を大きくしたようなお店でした。

新鮮だから出来るミディアムレアー(半分ナマ)の焼き鳥は絶品でした。

焼き鳥屋で先輩が、アルコールに弱い私達後輩にに向かって

「おまえ達が、このジョッキ(ビール)空けるまで俺は帰らないょ」

と言われ、グズグズ文句を言いながらも皆で飲み干したのは、忘れられない思い出です。

確か、会計は殆ど三好先輩が支払ってくれたと思います。

ご馳走様でした。

 


 

 

【57】貧乏生活

 

当時の2部の黒帯たちは、バイトで最低限の生活費を稼いで残りの時間は稽古に当てるという生活でしたので、皆貧乏でした。

 

現在は、極真の支部長として活躍している、ある先輩が、体調不良で稽古を休んだのでお見舞いに行きました。

 

JRの線路脇の長屋のようなオンボロアパートの一間を訪れると、先輩は恐縮顔で皆にお茶でもと冷蔵庫を開けました。

 

しかし、扉に1リットルのコーラの飲みかけが半分位あるだけで、中はカラッポでした。

恥ずかしそうな顔が印象的でした。

 

そんな中でも、なんとなくおしゃれな雰囲気の漂う稲岡さんだけは違っていました。

1度だけ、数人で遊びに行ったことがあるのですが、住まいは、道場近くのワンルームマンションで、室内には綺麗な自転車(ロードレーサー?)が、飾ってありました。

自転車には触らないようにと、ガサツな同僚たちに念を押していました。

なにしろ、綺麗な自転車でしたから。

稲岡さんも、今は、地方で空手指導者として活躍されているようです。

 


 

 

【58】怪我(1)

 

私は、余り大きな怪我は、したことがありません。

もちろん打撲や筋肉痛は、日常茶飯事ですが。

 

本部道場時代に2度大きな怪我をしました。

1度目は、本部道場1階で極真会の写真集の撮影が行われ、試割の写真を撮ることになった時です。

 

撮影は、板割りなど順調に進みましたが、最後にコンクリートブロックの穴に角材を通してぶら下げた状態で拳で叩き割るというのが行われました。

 

黒帯が次々挑戦するのですが、誰も割れません。私の番になりました。私は、わりと試し割りは得意で、当日もそれまで瓦や板の試し割りは成功していたので、割れるつもりで思いっきり拳を当てました。

ブロックは割れませんでした。

 

試し割りは、失敗すると、割ろうとした物体に与えたエネルギーが、割ろうとした本人に帰ってきます。

衝撃で私は、1メートルぐらい後ろにふっ飛ばされました。

 

手の甲が痺れて感覚が麻痺しました。手の甲が漫画のように3倍位に膨らみ始めました。

拳自体は、無事でしたが、手の甲の中指につながる骨が骨折しました。

 

完治に1年近くかかりました。

今でも折れた所は盛り上がっています。

 

接骨院では、また叩くと再び折れると言われましたが、完治後にコツコツと鍛え治しました。

現在まで特に問題ありません。

 

しかし、それ以来、拳での試し割りというのは、行わないことにしました。

 


 

 

【59】怪我(2)

 

試し割りというのは、普段の稽古では、一切行いません。

演部会等でブッツケ本番で行うものです。したがって非常に怪我の多いものです。

 

私と同じく拳を骨折した有名なチャンピオンもいます。

 

本部のある先輩は、ビール瓶を逆さに立て回し蹴りで割る演武で、破片で足の甲を切り入院しました。

私も神奈川支部時代に同じように一升瓶での演武を何回か行ったことがあり怪我が無くて良かったと、お見舞いに行ったとき背筋が寒くなりました。

 

また、他の先輩は、頭突きでコンクリートブロックを割る演武の後、数日間頭痛が止まなかったそうです。

 

空手を始めると初心者は何かを割ってみたくなるのですが、以上の様な事も有るのでお勧めできません。

 


 

 

【60】怪我(3)

 

本部道場時代に指の脱臼をしたことがあります。

一般部の組手の最中でした。

 

相手は小柄な茶帯で、私も少し気を抜いていたところもあります。

 

相手が、顔面に右後ろ回し蹴りを放ってきました。左手の掌で流そうとしたところ、掌でなく人差し指に当たってしまいました。

普通このくらいでは、あまり大事にはならないのですが、たまたま当たった角度とタイミングが抜群だったのでしょう。

私の人差し指は、指先から2つ目の関節で完全に外れて3つ目の骨の上に乗ってしまいました。

横から見ると、見事に『Z』の字のようになっていました。

 

とっさに引っ張りましたが、びくともしないので、稽古を中断して1階のロビーにいた内弟子に相談したところ、すぐにタクシーを呼び、近くの病院まで送ってくれました。

 

医者で、すぐにレントゲンを撮りましたが、骨や靭帯は無事だということで、先生と看護婦さん2人がかりで指を引っ張り、関節を元どうり入れました。

 

しばらくは、指はピクリとも動きませんでしたが、徐々に動くようなり完治しました。

 

今でも、拳を握ると少し違和感がありますが、靭帯が切れていたらと思うとゾッとしました。

 


 

 

【61】本部内弟子

 

指の脱臼の時には、新人の内弟子の素早い対応に助けられました。

 

本部の内弟子達は、先輩方の教育が良いのでしょう、大変礼儀正しく、真面目で、稽古にも真摯に取り組んでいました。

 

私達黒帯が稽古を終え1階の会館前の道路で休憩していると、決まって

「先輩!道着水洗いいたします!」

と、言ってくれました。

私は、

「ありがとう、自分でやるからいいよ。」

と、言っていましたが、

雨の日に稽古に行くと前の日に水洗いして道場前の路地に干しておいた道着が、雨の為に完全に

乾いていなかったのか、乾燥機で乾かしてあったような事も有りました。

 

内弟子として、朝稽古、一般稽古、自主稽古を行う他に、会館の業務もこなし、先輩たちにも気配りするという大変ハードな毎日を送る彼らには、本当に頭が下がる思いでした。

 


 

 

【62】先輩のつぶやき

 

ある日、飲み会の後に行ったラーメン屋のカウンター席での事です。

隣に座った『ある先輩』が、目の前の壁に貼ってあるメニュー表を見つめながらポツリと

「お前も、やっと本部の人間になったな~」

と、つぶやきました。

私は

「押忍。」

と一言だけ言葉を返しました。

 

実は、本部で初めて稽古した『帯研』の日に、勝手が解らずオタオタしていた私に

「本部に来たら、気を使えよ~!!」

と、一喝したのが、この『ある先輩』で、それ以来、少々苦手意識を持っていたので、やっと、私も認めてもらえたか、と大変印象深い一言でした。

 

初めて本部に来てから、すでに数年が経っていました。

 


 

 

【63】山崎先輩(1)

 

皆さんは、空気が凍りつくという事を経験したことが有りますか?

 

本部道場時代のある日、いつもの様に道場稽古をしていると、道場の入り口からフラリと人が入ってきました。

山崎照朝先輩でした。

 

山崎先輩とは、極真関係者ならだれでも知っている伝説の先生で、第1回全日本大会の優勝者です。

当時の試合のビデオを観てみると、妖気漂う独特の天地の構えから変幻自在の技を繰り出し、

特に上段回し蹴りは切れ味抜群。

現在の試合では、禁止されている掴みや投げにも対応しているのです。

まさしく、武道空手という試合でした。

キックボクシングの試合に出ても負け知らず。

後に、自流を興し、著書も何冊か出版され、私もほとんど全部読み、DVDも取り寄せました。

 

その、伝説のような先輩がいきなり目の前に現れたのです。

実際にお会いしたのは、この時が初めてでした。

 

その時指導していた内弟子は、すぐに稽古を止め、山崎先輩に

「オス!!」

と直立不動で挨拶を送り、遅れて道場生全員が

「オス!!」「オス!!」「オス!!」

と、挨拶を送りました。

山崎先輩は、『いいから、そのまま稽古を続けて』というふうに、手でジェスチャーされ、道場の中を懐かしそうに見回していました。

私たちは、再び稽古に入りました。

 

しばらくすると、山崎先輩は、風のように出入り口から去っていきました。

私達全員は、すでに山崎先輩の姿は消えてしまった出口に向かって

「オス!!」「オス!!」「オス!!」

と再び挨拶を送りました。

 

この間ほんの1~2分位だと思いますが、道場の空気が、『ピシッ』と凍りつくように感じられました。

確かに気温が下がったような感覚です。

たった1人の山崎先輩から、妖気というか、オーラというか、その様な物が道場中に発せられていました。

 

いったい、あのような人と対戦したら、どんな精神的圧迫を受けるのでしょうか。非常に興味がわきました。

 


 

 

【64】山崎先輩(2)

 

実は、山崎先輩とは、もう一度お会いする機会がありました。

 

私は、本部道場に移籍後しばらくして、埼玉県大宮市のスポーツクラブのトレーナー(指導員)として就職しました。

そのスポーツクラブは、会員募集の広告をタウン誌に出していました。

そのタウン誌の編集長が新しく変わり、挨拶に来ました。

その編集長が、なんと山崎先輩だったのです。

 

「君、極真の山崎照朝って知ってるか?」

と、うちの社長に言われ大変驚きました。

「広告の打ち合わせに同席するか?」

と、言われましたが、辞退しましたところ

「いくら、空手の先輩でも、こちらは、広告主なんだから堂々と接すればいいんだよ。」

と、言われましたが、

『そういう問題じゃないんだよな~』

と心の中でつぶやき、同席しませんでした。

社長には、

「極真空手の上下関係は、すごいもんだね~」

などと、妙な感心をされました。

 

応接室から離れたところに在るスタッフルームから、遠目で見た山崎先輩は、ダンディで

やはり雰囲気のある紳士でした。

 


 

 

【65】大山館長(1)

 

当時、本部道場には、海外からも外国人が数人稽古に来ており、大山館長は、常々

「海外からはるばる日本に来て稽古している外国人には、優しくしなさい。」

と言っていました。

 

ある日の稽古前に、ある外国人に、

「アナタのパンチでアバラがオレタ」

と、たどたどしい日本語で言われました。

 

その外人は私と同じくらいの体格の白人の黒帯で、ヨーロッパから来ていました。

よく考えてみると、前回の組手中にたまたま良い手応えのパンチが有ったのを思い出し、丁寧に謝罪しました。

 

相手も、抗議というのではなく『折れましたよ』という世間話のような感じでした。

一人で日本に来て経済的にも大変だろうと思い治療費を渡そうとしましたが、笑顔で決して受け取ってくれませんでした。

 

ただ、その外人黒帯は骨折した腹部に包帯をグルグルと巻いており大変目立ちました。

もし、大山館長に見つかり事情が知れれば確実にどやされるので、その日の稽古終了時に大山館長が

道場に来られて講話をされている時は、ヒヤヒヤしましたが、幸運にも包帯は発見されませんでした。

 


 

 

【66】大山館長(2)

 

大山館長は、よく同じ話を繰り返し話します。

相手が、不特定多数の道場生なので大切な話を繰り返すのは、やむおえないと思いますが。

 

ある日の稽古後に、館長が私に

「キミは、昼間何をしてるのかね」

と、質問されましたので、当時『鉄板焼きバリハリ』でバイトをしていたので

「押忍!コックの仕事をしています。」

と、答えると、館長は、難しい顔をされ

「キミィ、ネ~。

板前なんかやってたって強くなれないよッ!

そんなものは、辞めて、もっと、稽古しなさい!!」

と、腹から響くような声で言われました。

 

私は、

『仕事辞めて、どうやって生活していけばいいんですか?』

『だいいち、板前じゃなくてコックなんだけどな~』

と、心の中でつぶやきつつも、

「押忍!失礼しました!」

と、答えました。

 

その後数回、館長は、私の顔を見るたびに『板前辞めなさい』助言を繰り返されました。

 

結局私は、数ヵ月後、館長の助言に影響されたわけでは有りませんが、『板前』は辞めました。

 


 

 

【67】大山館長(3)

 

私は、小学生の頃から目が悪く現在はコンタクトレンズを使用していますが、当時は眼鏡をかけて稽古していました。

 

ある『帯研』の稽古のとき大山館長考案の新しい技を行ったのですが、私は、何がなんだか解らずオタオタしてると、たまたま近くにいた館長が

「キミは、目だけじゃなくって、頭も悪いのかねっ!!」

と、腹の底から響く声で言いながら、私の頭を平手で叩きました。

一瞬、むっと来て

『そんな、奇妙な技は解りません』

と心の中でさけびましたが、実際は

「押忍!失礼しました。」

と、答えました。

 

しかし、後で考えると天下の大山倍達に頭を叩かれるなんて大変光栄な事だと思いました。

 

私が知る限りでは、私の他に道場内で頭を叩かれた人は、見たことが有りませんでしたので…。

 


 

 

【68】道場の老朽化

 

空手界に旋風を起こした極真会でしたが、その本部道場は当時大変老朽化していました。

 

地下の更衣室兼道場は、常に水漏れがしており一時期は小川のように地下室の端を水が流れていました。

 

ロッカーは木製で蓋はほとんど取れていて、もちろん鍵など無く貴重品は自己管理という具合でした。

 

ただ、温水シャワーが有り風呂無しのアパートに住んでいた私達黒帯は、大変重宝しました。

 

道場は古くとも清掃はきちっとされており清潔でした。

また、2階道場の床は大変滑らかな木製で滑る程度が丁度良く心地よいものでした。

床に関しては、黒帯達にも好評でした。

 


 

 

【69】葛飾ジュニア空手クラブ(1)

 

本部道場に移籍して数年後、ふと気付くと先輩方や同期の人は、皆地方に支部長として赴任したり、

故郷に帰ったりで、私一人取り残されていました。

 

周りの黒帯も、かなり年下の後輩ばかりで、なんとなく居場所が無いような感じがしてきました。

 

この頃、私の勤めていた大宮のスポーツクラブは、好景気の波に乗り、葛飾区に支店を出しました。

私は、転勤して、葛飾店の店長をしていたのですが、出店3年目に大型店の出現で急速に経営が悪化し、打開策を模索していました。

 

エアロビクスや、ジャズダンスの教室を増やしたりする他に、空き時間の夕方に子供の空手教室も行うことにしました。

当然人件費タダの私が指導担当です。

 

一般に空手道場というと、試合を目指して稽古するのですが、私は、それだったら極真会が最高の環境だと思いますので、私の道場で行う必要は無いと考えました。

 

そこで私の道場は、試合は目指さず空手の稽古その物を楽しむ道場にしようと思いました。

 

稽古内容は、極真空手がベースですが、それ以外に子供向けの様々な工夫を凝らしました。

 

稽古内容が極真空手とは、かなり違うので、『極真』の名前は名のらずに、新たに自流『葛飾ジュニア空手クラブ』を名のる事にしました。

 

そして、私は、自流を立ち上げたのですから、その時点で極真会を辞めることにしました。

 

平成元年直前で、私は30歳になっていました。

 


 

 

【70】葛飾ジュニア空手クラブ(2)

 

『葛飾ジュニア空手クラブ』の初稽古は、小学1年生2人でした。

1ヶ月位してから少しずつ人数も増え、1年後には、15人くらいになったのですが、『スポーツクラブ』本体が経営難で閉鎖されてしまいました。つまり、つぶれたわけです。

 

経営に、かかわっていた私は、貯金の400万円ほどを失い、ほぼ無一文になってしまいました。

夢だったスポーツクラブの仕事も、貯金も、全て無くしてしまい、どん底といった感じでした。

 

『葛飾ジュニア空手クラブ』だけは、『スポーツクラブ』の前にあった集会所で稽古を続けることにしました。

これが、現在の『葛飾ジュニア空手クラブ金町道場』の始まりです。

その後、間も無く、他に2つ道場をオープンしました。

オープンの時は、神奈川支部時代に小田原と平塚で道場運営を行っていた経験が役に立ちました。

 

『スポーツクラブ』閉鎖後は、昼は定番の飲食店でバイトをして、夕方から空手の指導をし、週末は『整体』の学校に通い始めました。

 

3年後に、飲食店のバイトは辞め、貯めたお金で『整体治療院』を開業しました。

 


 

 

【71】葛飾ジュニア空手クラブ(3)

 

『葛飾ジュニア空手クラブ』を始めて、あっという間に10年が過ぎ、私も40才を過ぎていました。

 

小学生だった子供たちも、辞めずに残った数人は、中学、高校生となりました。

 

そこで、中学生以上の上級クラスを設けました。

 

中学生以上の稽古では、大人も納得できるような稽古を行いたい。

この頃より、空手の技術について、深く考えるようになりました。

 

空手は、護身の技術です。しかし私の空手で自分が守れるのだろうか?

相手が、空手の技のみを使うのなら、対処にも自信が有りますが、空手の試合ルールで禁止されている顔面パンチや掴みを使ってきたら対処できるのか?

普段、稽古してないのだから、対処は、難しいでしょう。

 

大体、暴漢というのは、掴みかかってくるか、顔を大振りのパンチで殴ってくるかなので、どちらも対処法を稽古するべきだと思いました。

 

そこで、試合目的ではない護身としての空手を、模索するようになりました。

 


 

 

【72】葛飾ジュニア空手クラブ(4)

 

私は、小学生の頃から大変読書が好きで、本部道場の貧乏時代でも図書館に通ったりしていましたが、この頃より、読む本を空手関係のもののみに限定し研究しました。

 

また、苦しい家計をやりくりしてビデオやDVDなども購入しました。

 

中国から沖縄に伝わり作り上げられた『唐手』には、掴んだり投げたりもあったのですが、日本本土に『空手』として伝わるときに、柔道などとの差別化を図るために蹴りや突きの打撃技を中心としたものに変化させたようです。

 

試合という概念の無かった『護身技術/唐手』は、本土に『空手』として広まるにつれ、様々なルールの試合を行うようになり、それにつれ、ルールに合う様々な技が発展したようです。

 

私は、本土に伝わる前の『唐手』こそが護身技術として有効なのではないかと思い、上級クラスで中学生、高校生達と試行錯誤を繰り返し技術を研究していきました。

 

護身技術は簡単では無いのですが、身に付いてくると大変面白く、数年後には小学生達にも指導し始めました。

 

これは、現在でも少しづつ改良を加えながら続けています。

 


 

 

【73】武器術(1)

 

平成も10年を過ぎた頃から、ナイフなどの刃物を使った無差別犯罪が頻繁に報道されるようになりました。

 

無差別に刃物で人を襲う事件や、刃物によるバスジャック、小学校に押し入って、刃物で児童を傷つけるような事件もありました。

 

空手の稽古中に、頭のおかしい者が道場に刃物を持って押入って来たら子供達を守れるのか、と考えると、とても他人事とは思ませんでした。

 

とりあえず自衛の為、各道場に60センチ程の木の棒を常備することにしました。

 

また、この頃から刃物を持った相手との戦いを想定して上級者クラスで稽古を行いました。

 

相手に刃物の変わりにウレタンの棒を持たせ、稽古したのですが、ウレタンの棒でも素面を思い切り攻撃させるわけにもいかず今一つ中途半端でした。

 

また、顔面なしの刃物攻撃なら何とかなるのですが、実戦ではそうも行かないはずです。

 

道場に常備した木の棒にしても、振り方も解らず、侵入者を撃退できるのか疑問に思い始めました。

 

『唐手』の達人は、武器術も身に付けていたようで、私も何か身に付けたいと思うようになりました。

 


 

 

【74】武器術(2)

 

公共の武道場では、棒術や薙刀などのサークルもありましたが、今一つぴんときませんでした。

 

できれば、道場に常備した木の棒のような一般的で手軽なものがよいのですが...。

 

そんな時、頭にひらめいたのが、以前テレビで観た『スポーツチャンバラ』でした。

 

早速、インターネットで検索すると『スポーツチャンバラ』の道場やセミナーが都内に数多くありました。

 

まず、剣道出身の創始者の著書を取り寄せ読んだところ、大変実戦志向で護身について良く考えられているのに驚きました。

 

『スポーツチャンバラ』の前身は、『小太刀護身道』という護身術だったそうです。

使用する『小太刀』というのが、偶然にも道場に常備した木の棒と同じ60センチであるのを知り『これだ!』と、思いました。

 

道具も通販で買えるようなので、試しに面と小太刀を2セットづつ購入しました。

 

早速、自分の道場の上級クラスで試してみることにしました。


 

 

【75】武器術(3)

 

『小太刀』は、『エアーソフト剣』と呼ばれ、空気を入れて膨らませる剣で、当たってもそれほど痛く有りません。

 

面は、剣道の面とはまるで違い、空手の面に近く、前面は透明なシールドで出来ており、

剣で叩かれても余り衝撃がありません。

 

早速、上級クラスで一通り空手の稽古を終えたあと10分位を小太刀稽古にあててみました。

型や基本などは、知りませんので、とりあえず自由に乱打戦を行いました。

 

ルールは簡単で、身体のどこにでも先に当てれば勝ちというものです。

護身法として稽古しているので、『エアーソフト剣』ではなく、もし硬い棒であれば致命傷を負うような打撃を受ければそこで負けとしました。もちろん、かすった程度であれば勝負を続行しました。

 

10分程の稽古でしたが、これが色々な意味で大変面白かったのです。

生徒達にも好評でした。

 

しばらく、上級クラスの稽古に組み入れることにしました。

 


 

 

【76】武器術(4)

 

『小太刀』の稽古と空手の大きな違いは、顔面も含めて、『当たっても痛くない』ということです。

 

『エアーソフト剣』でも良い打撃を受ければ、顔以外は多少みみず腫れになったりしますが、空手の組手稽古に比べれば遥かに身体の負担は少ないのです。

 

したがって怪我の心配も無く、先生である私は、生徒相手でも手加減の必要がありません。

 

空手の組手にある『恐怖感』も一切無く、生徒も先生に対し遠慮なく、おもいっきり攻撃できます。

 

禁じ手が、ほとんど無いので『小太刀』の稽古では、ほぼ実戦に近い状態で戦えます。

 

また、空手の組手稽古では打撃を受けても我慢できれば、反撃に転じられますが、『小太刀』の稽古では、1発良いのを貰えば、痛くなくても『即終了』で、まさしく『一撃必殺』なわけです。

 

身体の強さよりも、タイミングやスピード、戦術や技術が重要となります。

 

そして、やってみて意外だったのは、負けるとかなり悔しいということです。

 

空手の場合と違い、負けても身体のダメージが無いので、なんとなく納得いかないというか、悔しく、ガッカリします。

それが、更なる再戦への意欲につながります。

 


 

 

【77】武器術(5)

 

『小太刀』稽古を始めて、3ヶ月程経った頃、もっと上手くなりたいと思うようになりました。

 

私は、『小太刀』について誰かに何かを教わったわけでは無く、まったくの我流です。

やはり、『小太刀』を専門に稽古してる人は、それなりの技術を持っているはずで大変興味がわきました。

 

かなり迷った末に、スポーツチャンバラ(以下スポチャン)の講座に参加する事にしました。

 

スポチャンの講座は、私の住む亀有の隣町北千住のカルチャースクールの中の1つの講座として、隔週日曜日の昼に行われていました。

 

とりあえずは、1日体験ということで稽古に向かいました。

 

私は、空手の先生ですので、生徒に指導する事はあっても、他の先生の道場に行って教えを乞うなどと言う事は、久しぶりです。

 

平成19年、私は、48歳でした。

40の手習いならぬ50の手習いの開始です。

 


 

 

【78】スポチャン体験入会(1)

 

さて、1日体験当日、北千住のカルチャースクールに早めに着き、やや緊張しながら先生の来るのを待っていました。

 

空手初心者の頃に、諸先生、諸先輩方との人間関係に、気を使う事が多かった事を思い出し、どんな先生なのか少し心配でした。

 

やがて到着されたスポチャンの師範『植草先生』は、他に拳法の師範もされているということで、私よりやや小柄ですが、がっちりとした体格で、ニコニコと笑顔で大変温和な印象を受けました。

年齢は、私より4歳年上ということでした。

「とにかく、気楽に楽しんでいってください」

といわれ、空手の道場とは、大きく違う、そのソフトな感じにほっとしました。

 

道場というかレッスンルームは、鏡張りでエアコン完備の綺麗な部屋で、床はフローリングでした。

生徒は、小学生5~6人と、中学生、高校生、大人の男女数人でした。

私と同じくらいの年齢の人も1人いましたが、平均年齢はかなり低めです。

 

まず初めに基本の型を行い、次に、2人組みになり、決められたパターンの打ちと受けを数種類行いました。

 

最後は、1対1で自由に打ち合う乱打戦です。

 

私も、3ヶ月程小太刀の稽古をしてきましたので、先輩の道場生達とは特に問題なく稽古できました。

 

最後に、植草先生が相手をしてくれることになりました。

 


 

 

【79】スポチャン体験入会(2)

 

後で知ったのですが、植草先生は、スポチャンの色々な大会で活躍した選手で、世界大会で優勝したこともあるのです。

 

その打突は強烈で、元世界チャンピオンとの試合中に、強烈な横面を打ち込み、失神させた事もあるそうです。

 

さて、植草先生と私の対戦にもどります。

最初、先生は、様子を伺っているようで余り打ち込んできませんでした。

しかし、威圧感というか圧力は大変なものでした。

 

私は、当時の得意技『面突きのフェイントから足打ち』を思い切りよく行ったところ、見事に決まりました。

 

しかし、私の1本は、そこまでで、先生の反撃が始まりました。

まず、まったく見えない篭手打ちを同じ所に3回連続で決められ、その後は、面、胴、足と全身メッタ打ちにされました。

 

私も、必死に反撃するのですが、全てガッチリ防御されるか、間を外され空振りするかで、数分間の対戦終了時には完全に息も上がってしまい、立っているのがやっとという感じでした。

 

先生はというと、涼しい顔をして呼吸も乱れていませんでした。

 

私は、何年、いや何十年ぶりかの物凄い疲労感で、回復するのに3日ほどかかりました。

そして、体中のいたるところに、小太刀の痕が付いていました。

 

余りの先生の強さに圧倒された私は、その夜、電話で友人に

「世の中には、強い人がいるもんだね~」

と、興奮して話していました。

 


 

 

【80】スポチャン入門(1)

 

植草先生の強さに感激した私は、正式に入会することにしました。

 

体験入会の日に、先生との対戦で決められた『篭手打ち』は、3回も連続で決められたのにまったく見えず、どういう技なのか解りませんでした。

 

3回目の稽古の時、先生が他の生徒と乱打戦を行っているのを見て、やっと解りました。

 

胸元に肘を曲げて構えた小太刀を、相手の篭手めがけて打ち出し、当たったら、すぐに胸元に小太刀を戻すという、空手の裏拳打ちのような打ち方で、スポチャンでは『扇打ち』というそうです。

打ってすぐに、素早く胸元に小太刀を戻すので、初心者の私には剣の動きがまったく見えず、何をされたのか解らなかったのです。

 

やはり、小太刀専門に稽古してる人は技術も優れており、入会しなければ解らないことが他にも沢山あり、大変勉強になりました。

 

しばらくしてから、月2回の稽古では物足りなくなり、北千住の小学校の体育館で土曜の夜に行われている稽古に毎週参加する事にしました。

 

こちらは、かなりレベルが高く、多くの成人の強い先輩方が稽古に励んいました。

 


 

 

【81】スポチャン入門(2)

 

『スポーツチャンバラ』は、毎月のように各地で大会(試合)が行われています。

 

名称が、『チャンバラ』の前に『スポーツ』と着いているように、試合ルールは、武術的、護身的というよりも、かなりスポーツ化されています。

 

例えば、剣先が着衣にかするだけでも1本になります。

 

しかし、私が入会した植草道場では、練習中には、試合で1本と成るような技でも、打突が弱ければ構わず続行します。

 

また、試合では見られない接近戦で相手の剣を持つ手や、柄をこちらの手で掴んで制したりと言う様な実践的な事も行われていました。

 

植草先生は、拳法の師範もされており、非常に考え方が実践的、護身的でした。

 

私は植草先生と対戦稽古していると、空手の稽古をしているような感覚になります。

 

実際、初期の頃、余りに先生が強くて歯が経たないので体当たりをかましたこともありました。

先生はというと、さらりと身をかわし、余裕で『ニヤリ』としていました。

私も、『体当たりでも駄目かっ!!』と、先生の強さに半分嬉しくなり、やはり『ニヤリ』としてしまいました。

 

もちろん、体当たりなどスポチャンの試合でおこなえば、怒られるのは当然です。

 

偶然にも、私の選んだ植草先生の道場が、武術志向であったことは、大変幸運であり、とても有難い事だと思います。

 


 

 

【82】スポチャン入門(3)

 

私は、たまにスポチャンの大会(試合)にも挑戦しています。平均年齢は低めで、50歳過ぎの私は、

ほぼ最年長という感じです

 

たまに、上位に入賞することもあり、もうしばらくは、挑戦してみようかと思っています。

 

ただ、あまり試合志向だと、ルールの無い護身術として使えない技術になってしまうので、

普段の稽古では、護身を意識して稽古しています。

 

また、小太刀稽古は、月に一度、ほんの数10分ですが『葛飾ジュニア空手クラブ』の稽古にも組み入れました。

 

小太刀と空手には、共通点が多く、小太刀を稽古することは、空手にも大変役に立ちます。

子供たちにも、なかなか好評で、楽しそうに剣を振るっています。

 

ただ、スポチャンの公式『エアーソフト剣』は、幼児や小1には、たまに痛いらしく、泣き出すことも有ったので、しばらくして、公式ではない当たっても痛くない棒に変更しました。

 また、面の数が足りない事や楽しさ重視のため、素面で顔面無しで稽古するように変更しました。

 


 

 

【83】あとがき

 

空手を始めた頃は、出来ないことが出来るようになる喜びや、新たな発見や工夫をする楽しみ、稽古後の充実感などで、夢中になって稽古しました。

 

年月を経て、そのペースは、緩やかになりましたが、空手のおかげで張りの在る生活を送れています。

若い頃に、空手に廻りあえて幸運であったと思います。

 

現代へ空手を伝えてくれた、多くの先人達には、本当に感謝しています。

 

『当たり前のことを、当たり前に、淡々と行う』

稽古の心得ですが、稽古以外でも常にこうありたいものです。

 

今日も明日も、心穏やかに淡々と稽古に励んでいきます。

 

 

        ―終わり―


白帯の頃  

通信教育の合宿

砂浜での稽古

中央の背の高い白帯

が筆者   

白帯の頃
通信教育の会員証  
通信教育の会員証
青帯の頃  

神奈川支部の

集合写真

中央に大山館長

青帯の頃
黄色帯の頃  

神奈川支部

基本稽古

前列右から2番目が

筆者

右側は同期の松井君

 

組手稽古、左が筆者 

黄色帯の頃
全日本選手権  

初試合

対、二宮城光四段

全日本選手権

全日本選手権 

対、東孝四段 

全日本選手権
池袋本部道場時代  

稽古後の飲み会

道場横の公園(上)

巣鴨のスナック(下)  

池袋本部道場時代
本部道場夏合宿  

黒帯仲間と 

本部道場夏合宿
葛飾ジュニア空手クラブ  

第1期生

葛飾ジュニア空手クラブ